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論文

 

『人間科学:大阪府立大学紀要』7 2012年2月 93〜108頁
幸福感の操作と人間の尊厳

生命の哲学の構築に向けて(4)
森岡正博

 

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1 はじめに

幸福は人生の最大の目標のひとつであると考えられてきた。しかし近年の科学技術の発達によって、幸福が人間の脳のはたらきと密接に関連している可能性が見えてきた。もし脳操作によって幸福を巧妙にコントロールすることができるようになったらどうだろうか(1)。私たちは脳操作によって得られた幸福を、真の幸福だとみなすことができるだろうか。本論文では、幸福感の操作について考察を行ない、「幸福」と「人間の尊厳」の関係を明らかにしていきたい。

先に進む前に、幸福の概念について簡単に整理しておこう。哲学者たちは幸福を「主観的幸福」と「客観的幸福」に分けて考えてきた。私たちのほとんどは、幸福という言葉を聞いたときに、主観的幸福、すなわち幸福感のことをイメージしている。J・S・ミルの『功利主義』にその典型例を見ることができる。

幸福happinessとは心地よさpleasureがあることおよび苦痛painがないことを意味している。不幸unhappinessとは苦痛があることおよび心地よさがないことを意味している。(2)

ミルは、幸福を、心地よさや苦痛といった内面的な状態によって定義する。ここで言われているのは、幸福感のことである。これに対して、幸福とは内面的な幸福感のことだけを指すのではなく、大切な人との関係性や、自己実現や、幸運な出来事の到来などの外面的な文脈によっても左右されるものだとする考え方がある。その代表的な論者はアリストテレスである。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、「幸福こそは究極的・自足的な或ものであり、われわれの行なうところのあらゆることがらの目的であると見られる」(3)と述べている。

してみれば、われわれは、幸福なひととは、究極的な卓越性に即して活動しているひと、そして外的に善に充分恵まれてあるひと、それも任意の時日の間だけではなく究極の生涯にわたってでなくてはならない、といっていけないであろうか。(4)

アリストテレスによれば、幸福(エウダイモニア)とは、全人生における完全な徳の実現をめざす活動それ自体のことであり、幸福感とはその活動の不随物であるにすぎない(5)。人生を善く生きるという活動そのもののことを幸福と呼ぶアリストテレスは、人間の内的状態を幸福と呼ぶミルからはずいぶん隔たった位置にいる。

これらのことを確認したうえで、本論文では、主観的幸福すなわち幸福感に焦点を絞って考察していくことにする。なぜなら、今日において幸福という言葉が用いられるとき、そのほとんどは幸福感の意味で使われているからであり、また脳操作によって左右できるものも幸福感であると考えられるからである(6)。

2 幸福感操作薬についての思考実験

米国の大統領生命倫理評議会のレポート『治療を超えて』(2003年)は、SSRIs(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの気分明朗剤がもたらす倫理的問題について幅広い議論を行なっている。レポートによれば、たしかにSSRIsは、精神に冷静さをもたらし、幸福を達成するための背景環境を形作り、人格を変容させ、そうすることによって患者がより良い生を送ることをサポートすることができる(7)。しかしながらそれは以下のような根本的な倫理的問題をかかえているとされる。第一に、人々は「ふさわしい理由がまったくないのに幸福を感じたり、人生の中にどうしようもなく不幸なことが現存しているときでさえ幸福を感じたりするようになる」かもしれない(8)。第二に、「SSRIsは精神的苦痛を感じ取る能力を広範に鈍化させるかもしれず、その結果、我々は不幸や悲劇を経験してそこから学んだり、他人の悲惨な経験に共感したりする能力を低下させてしまうおそれがある」(9)。第三に、それらの薬は「人類の真の繁栄の可能性を縮減してしまうおそれがある」(10)。結論として、レポートは、それらの薬を「控えめにsparingly」使用して、「楽しいときに楽しみを感じ、悲しいときに悲しみを感じることができる」ようにしておくべきだとするのである(11)。

このレポートは、米国の保守派の生命倫理の立場から書かれており、技術肯定派からは、感情に引きずられた論であるという批判が出されている。たしかにその批判が当たっている面があることも否めない。しかしながら、このレポートでなされている、「なぜ幸福感の極端な追求は制限されなければならないのか」についての議論は、たいへん重要なものを含んでいる。特に「ふさわしい理由がまったくないのに幸福を感じる」のはおかしいという指摘や、「楽しいときに楽しみを感じ、悲しいときに悲しみを感じることができる」ようにしておくべきだという指摘は、何かの本質的な問題をとらえていると言える。

彼らの議論をさらに発展させて考えるために、ここでひとつの思考実験を行なってみたい。ここに、副作用のない完全な幸福薬があるとする。その薬を飲むと、たとえどのような経験をしようとも2〜3日のあいだ幸福感に満たされる。さて、ある親が小さな子どもを連れて道を歩いていた。突然、暴走車が突っ込んできて、その子をひき殺してしまった。親は動転してパニックになった。駆けつけた救急隊は、親の精神状態を確かめてから、その親に完全幸福薬を注入した。親の心はすぐに幸福感に包まれた。そして親は、「今日私の子どもが殺されたが、私はなんて幸福なのでしょう」と言って、救急隊員に微笑んだ。

親は、自分は幸福であると主張しているが、それが非常に奇妙なことであると思わない者はいないであろう。これはまさに、『治療を超えて』において言われていた、「人生の中にどうしようもなく不幸なことが現存しているときでさえ幸福を感じるようになる」典型例なのである。私見では、なぜこの思考実験のケースが歪んだもののように見えるのかと言えば、その親が完全幸福薬の全面的な支配下にあり、そのような悲しむべき出来事を経験したときに「不幸を感じる自由」というものが、その親から奪われているからである。このような状況下においても、親には「普通の人々にとってこれは悲劇である」と判断できるだけの理性能力が残っているであろうが、しかし親の感情は薬が生み出した幸福感によって支配されているのであるから、親には2〜3日のあいだ幸福に浸り続ける道しか残されていないのである。ひょっとしたら、親は1日おきに薬を飲んで幸福感を味わい続けたいと望み、直面すべき厳しい現実から逃れようとするかもしれない。

3 人間の尊厳と幸福感

ドン・C・デ・ジャレは、「外的な原因で引き起こされた快楽」について次のように語っている。ピューリタンの伝統のなかには、「快楽というものは非常に強烈なので、人間はその感覚を繰り返し味わいたいという欲望を抑えることができなくなり、その欲望の奴隷になってしまうという信念」があるのだ、と(12)。このような意味での奴隷化(従属化 enslavement)は、上記のようなケースにおいても見られるのだろうか。私はイエスと答えたい。

イマニュエル・カントは、「道徳の原理」と「幸福の原理」を明瞭に切り分け、前者を上位に置いている。アレン・ウッドは、カントの幸福概念を「快楽、現状に対する満足、欲望充足」が組み合わさったものとして解釈する(13)。カントの考え方を基準にすれば、薬によって引き起こされた幸福感を人間の第一の目的だと考えることはできない。なぜなら、そこには、自分自身の完全性をみずから涵養するという根本的な道徳的義務が欠けているからである(14)。

もうひとつ別のケースを考えてみたい。ある女性が強制的に完全幸福薬を注射されてからレイプされる。あるいはある男性が強制的に完全幸福薬を注射されてから拷問される。人間が行ない得るもっとも残虐な行為がここでなされているわけだが、しかしそのあいだ彼らは薬によって引き起こされた強烈な幸福感を味わっているのである。このようなケースにおいて、「彼らは幸福なのだから、なんの問題もない」と言う人は誰ひとりいないだろう。ほとんどの人は、常軌を逸した侮辱的行為が彼らに対してなされていると感じるはずだ。すなわち、上記の男女は「不幸を感じる自由」というものを奪われているのであり、薬によって引き起こされた幸福感と引き替えに、「人間の尊厳」としか言いようのないものを奪われているのである(15)。

レオン・キャスは、薬によって引き起こされた多幸感は我々から「人間の尊厳」を奪うと示唆する。だが彼は、人間の尊厳と幸福の関係についてクリアーに考えることをしていない(16)。私の直観が正しければ、キャスが示唆するように、薬によって引き起こされた幸福感の最大の問題は、幸福感と引き替えに「人間の尊厳」が奪われるところにある。では「人間の尊厳Menschenwurde; human dignity」とは何であろうか(17)。

人間の尊厳をもっとも深く考察したのはカントである。カントは尊厳を、すべての理性的な人格に等しく与えられた「絶対的内面的価値」であり、何人であれそれを毀損することをしてはらなないと主張した。我々は、すべての人に内在している人間の尊厳に対して、互いに尊敬を払う義務を有している。理性的な人格である人間は、内的自由を持っている。我々はそれを奪うことをしてはならない(18)。

たんに道徳的存在としての自己自身に対する人間の義務に関して言えば、それは、・・・人間が、道徳的存在であるという特典、すなわち原理に従って行為するという特典、いいかえれば内なる自由を自から放棄し、そうすることによって自からをたんなる傾向性の遊戯の対象とし、そしてついに物件にしてしまってはならない、という禁止において成りたってもいることになる。(19)

カントは、人間の自分自身に対する義務は、自分を単なる傾向性に翻弄されるもの(すなわち物件)へと堕さないことに存すると考えた。これは「人間の尊厳」に関する、きわめてまっとうな主張である。人間の尊厳の核心部分とは、人間をけっして物のように扱わないことだからである。カントのこの考え方に従えば、薬によって引き起こされた幸福感で人間を支配することは、人間の尊厳に対する明瞭な侵害であるとみなされなくてはならないことになる。なぜなら、そのような支配を行なうことは、人間を単なる傾向性に翻弄されるものへと堕することだからである。したがって、上記のケースにおいて、カントの言う意味での「人間の尊厳」は、薬によって引き起こされた幸福感と引き替えに奪われてしまったと考えることができる。

ここからさらに進んで考えてみよう。上記のケースにおいて、彼らには「不幸を感じる自由」がないのであった。その自由が奪われたおかげで、彼らは「人間の尊厳」を失ったのであった。ということは、ある生が尊厳なものであるためには、「不幸を感じる自由」が保障されていることがどうしても必要であることになる。したがって、「尊厳ある生」とは、「不幸を感じる自由」が保障されている生、すなわち幸福感によって支配されることのない生のことであると言える。

尊厳ある生は二つの特徴を持っている。

まずは、さきほど議論したように、尊厳ある生は幸福感による支配から自由でなくてはならない。(それが薬によって引き起こされたものであろうがなかろうが関係ない)。それだけではなく、尊厳ある生は、その種の幸福を経験したいという我々自身の強い欲望による支配からもまた自由でなくてはならない。前者の支配は外部から到来し、後者の支配は自分自身の内部から湧き上がる。後者の欲望に言及するのは、タバコやアルコールのことを考えるといささか禁欲的すぎるかもしれないが、それでもなお尊厳ある生の重要な本質はそこに存在すると私は考えている。

第二に、尊厳ある生は不幸感による支配から自由でなくてはならない(20)。この考えは、第一にものに比べれば理解しやすいであろう。尊厳ある生は、自身の存在や価値に関する否定的思考による支配から自由でなくてはならない。人々は、過酷で繰り返される虐待や、愛する人の死や、壊滅的な自然災害などを経験したときに、この種の自己否定の餌食になりやすい。このようなケースにおいて人間の尊厳とは、以下の信念を意味している。それはすなわち、たとえどのような苦しみや苦難を経験しようとも、すべての人間は不幸感による支配から脱出する可能性を持っているし、これからの人生において自己肯定の感覚をふたたび獲得する可能性を持っているという信念である。そして、自己肯定の感覚の再獲得をサポートするために、ある一定期間、SSRIsなどの薬を慎重に投与することも許される、ということになる。この点に関しては、先に紹介した大統領レポートと同じ結論になる。

この点について、少しばかり慎重に考えてみたい。先に述べた思考実験では、失意のどん底に落ちた人間の心を、完全幸福薬によって、幸福感で満たしてしまった。その結果、薬によって引き起こされた幸福感でその人間が支配され、尊厳ある生が奪われてしまったのであった。では、完全幸福薬ほどは効果の強くない別種の薬を投与することによって、失意のどん底に落ちた人間の心から絶望や不幸感を取り除き、その人間の心に「とくに不幸でも幸福でもない状態」を作り出すことについてはどう考えればいいのだろうか。

結論から言えば、このような投薬には、肯定すべき側面と、さらなる吟味が必要な側面の両方があると私は考える。肯定すべき側面について言えば、絶望と不幸感に支配されていた人間は、投薬によってその状態から抜け出すことができ、自己肯定の感覚を取り戻すための営みを開始することができるようになる。それによってふたたび自分の人生を前向きに切り開いていけるようになるならば、それは歓迎すべきことであろう。投薬によって、不幸感による支配から脱出できるわけであるから、これは人間の尊厳を奪う行為ではないとひとまずは言える。であるから、私はSSRIsなどの精神作用薬の使用がただちに人間の尊厳を奪うと主張しているわけではないし、その使用を禁止しようと主張しているわけでもない。私が警鐘を鳴らしたのは、人間の心を幸福で満たして支配してしまうような完全幸福薬の使用についてである。そして完全幸福薬の検討を通して、幸福感の操作と人間の尊厳の関係について哲学的な洞察を深めてみたのである。

さらなる吟味が必要な側面とは、上記のような不完全な幸福薬の使用において、薬の使用者に薬への依存が生じている点をどう考えればいいかということである。いったん薬の使用をやめてしまえば、その人間はふたたび絶望と不幸感に突き落とされてしまうのであるから、それは薬へ依存してはじめて立っていられるということであり、果たして尊厳ある生と言えるのかという疑問が生じてくるからである。これについては、論文の最後であらためて考えることにしたい。

以上の議論によって、人間の尊厳のひとつの重要な側面を、幸福感および不幸感との関連性において説明できることが分かった。

先走って言えば、我々はさらに次のように主張することさえできるかもしれない。すなわち、尊厳ある生とは、人間が、外部の人々の欲望や、自分自身の心身から発する欲望によってけっして支配されないような生のことである、と。そして、そのように解釈された尊厳ある生が基盤となって、人は自分の全人生を自己肯定とともに生き抜いていくことができるのであるし、他のいかなるものが無残に破壊されたとしても全人生を悔いなく生き抜いていくことができるのである。(この基盤のことを私はかつて「中心軸」と呼んだことがある)(21)。すなわち、尊厳ある生とは、幸福感や不幸感によって支配されておらず、自分自身の内部や外部にあるいかなる欲望によっても支配されていないような生である、ということになる。言い換えればそれは、幸福感による支配や不幸感による支配や欲望による支配から身を遠ざけて過ごすことのできる生のことである。ここにおいてカント的な思想が原始仏教と出会う、と考えることもできる(22)。

人間には自分自身の幸福を増進しようとするどうしようもない傾向性があるというカントの考えに、私も同意したい。我々は、カントの時代には存在しなかったような先端科学技術によって駆動される欲望追求文明の中に住んでいるということを思い出さなくてはならない。そのような文明において我々が真に達成しなければならないのは、快適さの量を増大することによる幸福の増進ではなくて、快適さや幸福感を追求したいという我々の欲望によって支配されないような尊厳ある生を追い求めることである(23)。以上に述べた欲望の問題は非常に重要であるが、本論文の枠を超える課題であるので、これ以上の考察は控えておくことにしたい。

ところで、次のように主張する人がいるかもしれない。「たとえ幸福薬によって得られるものであったとしても、我々は幸福感に支配された生を選ぶ自由というものを持っていなくてはならない」、と。これは、我々には、人間の尊厳を奪われた生を選ぶ自由がある、という主張である(24)。また、次のように問う人がいるかもしれない。「もし、薬によって引き起こされた幸福になんの副作用もなく、他人にいかなる害も与えず、その幸福感が無限に続くとしたら、いったいどんな悪いことがあるのだろうか。あなたはそれを尊厳が奪われた生だと言うが、私は幸福感がずっと満たされたままの生のほうを好むだろう」、と。

私はそれに対してイエスと答えてみたい気持ちがある。なぜなら、J・S・ミルが述べるように、我々には他人を害しないかぎり愚かなことをする権利がある、と私は思うからである。と同時に、このような発言は、皮肉にも、J・S・ミルのもうひとつの言葉、「満足した豚よりも不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿よりも不満足なソクラテスであるほうがよい」を思い起こさせる(25)。おそらくミルは、上記のような選択はたしかに人間の自由として保障されるが、さほど上等な生とは言えないと答えることであろう(26)。

以上のような私の主張は、生命倫理の文脈で人間の尊厳の重要性を強調する点において、米国の保守派の生命倫理学に似ているように見える。しかしながら、自由についての私の考え方は、彼らとは異なると思われる。すなわち、幸福感によって支配された生を選ぶ自由や、不幸になる自由を、彼らは認めたがらないだろうからである。

4 幸福感操作器械についての思考実験

ところで、これまで私は、「不幸を感じる自由を持つこと」と「幸福感による支配から逃れていること」を、我々の文脈において同一のこととしてきたが、それはほんとうに正しいのだろうか。ここで、私はもうひとつの思考実験を行ないたい。完全幸福薬と同じ効果を達成できる小さな器械が、人間の脳の内部に埋め込まれたと仮定しよう。この人間は自分の手にスイッチを持っている。スイッチをオンにしたらこの人間は強制的に幸福感に満たされる。スイッチをオフにしたら通常の心理状態に戻る。この人間がスイッチを切り替える自由を持っているという点が重要である。この人間は、器械によって引き起こされた幸福感を経験する自由を持っているし、その経験をストップする自由をも持っているのである。

この人間がレイプされたりあるいは拷問されたりしたときに、自分でこのスイッチを入れたらどうなるだろうか。スイッチを入れた直後、この人間は強い幸福感に襲われる。そしてその幸福感があまり大きいので、この人間はスイッチを切ろうなどとけっして思わないようになるかもしれない。この人間は、器械によって引き起こされた幸福感を永遠に手放したくないと願うかもしれないし、元の状態には決して戻ってきたくはないと思うかもしれない。このケースにおいて、この人間はスイッチを切る自由を保持しているにもかかわらず、けっしてその自由を行使しようとは思わないのである。すなわちこのケースでは、この人間は器械に対するある種のアディクションに陥っているとみなすこともできる。

完全幸福薬の場合、その人間は薬によって引き起こされた幸福感を2〜3日のあいだ強制されるのであり、ただそれを経験し続けるしかないのであった。しかしながら、幸福器械の場合、その人間はスイッチを切って、器械によって引き起こされた幸福感から逃れる自由を持っている。したがってこの二つのケースはまったく異なるのである。

私は以下のように考えてみたいと思っている。器械のケースでは、たしかにその人間はスイッチを切る形式的な自由を持ってはいる。しかしその人間は器械によって引き起こされた逆らいがたい幸福感によって行動を支配されており、スイッチを切る実質的な自由を奪われている。したがって、この人間は、「人間の尊厳」を奪われていると言えるのである。

すなわち、幸福薬の場合は、「自由」と「人間の尊厳」の両方が奪われているのに対し、幸福器械の場合は「形式的な自由」は保持されているものの、「実質的な自由」と「人間の尊厳」が奪われているのである。

この第二の思考実験から導かれるのは、次のようなことである。

まず、「人間の尊厳」を守るためには、「幸福感による支配から逃れていること」が必要であるが、その支配から逃れているためには、「不幸を感じる形式的な自由」が与えられているだけではダメだということである。そのためには、「不幸を感じる実質的な自由」が保障されなくてはならない。この点についてカントならどう考えるだろうか。先のカントの引用をもう一度見てみよう。「人間が、道徳的存在であるという特典、すなわち原理に従って行為するという特典、いいかえれば内なる自由を自から放棄し、そうすることによって自からをたんなる傾向性の遊戯の対象とし、そしてついに物件にしてしまってはならない」。この箇所を読むかぎり、カントは、原理に従って行為するという内的自由を、たんに形式的な自由としてではなく、実質的な自由として述べていると思われる。したがって、カントもまた、「人間の尊厳」を守るためには、「不幸を感じる実質的な自由」が保障されなくてはならないと主張するのではないかと私は推測する。

形式的な自由はあるのに、実質的な自由がないというこの状況について、さらに考えてみよう。第二の思考実験において、その人間はスイッチをオンにもできるしオフにもできるという両方の自由が与えられていた。しかしながら実際には、その人間はいったんスイッチをオンにしてしまったが最後、もう二度と自分の力ではそれをオフにできないような状況へと追い込まれてしまうのである。ここにあるのは、オフの選択肢があるのに、つねにオンの側しか押されないようになっているスイッチのシステムである。このシステムは、スイッチと人間の脳を直結することによって成立している。このスイッチのシステムは、それを押す前には「オンにするかオフのままにするか」を自分で選ぶ実質的な自由が与えられているのだが、いったんオンにしてしまうと、それをオフにする実質的な自由が奪われるような、そういうシステムなのである。

このシステムにもっとも構造が似ているのは、「アディクション」である。タバコを例に取れば、タバコをいちども経験したことのない人間は、タバコを吸うか吸わないかを選ぶ実質的な自由が与えられている。だがいったんタバコを吸ってそれを続けていると、タバコへのアディクションが起き、タバコを手放す実質的な自由がその人間から奪われるようになる。実際にタバコは脳内に快楽物質を分泌させるのであるから、第一の思考実験で想定した幸福薬に非常に近い。タバコが切れそうになったら次々と火を付けるのであるから、そのたびに幸福器械のスイッチをオンにしているようなものである。この仕組みがもっとも完全に働くのが、第二の思考実験で想定した幸福器械であろう。いったんオンにしてしまうと、それをオフにする実質的な自由が奪われるようなシステムのことを、私は「アディクティブなシステム」と呼ぶことにしたい。「薬や器械で引き起こされた幸福感による支配」と「人間の尊厳」の関係の問題は、「アディクティブなシステムとはそもそも何か」という問いと密接につながっているのである。

アディクティブなシステムには、不完全な段階と完全な段階がある。不完全な段階とは、人間がそこから抜け出したいと思っているのに、どうしても抜け出すことができないという段階である。タバコをやめたいと思っているのに、どうしてもやめることができないという場合がそれである。これに対して、完全な段階とは、その状態にある人間がまったくそこから抜け出したいと思っていないような段階である。いくらタバコが身体に悪いと言われても、タバコをやめたいなどとはまったく思わないという場合がそれである。完全幸福薬や幸福器械は、この段階へと人間を即座に連れて行くことができる。

以前に、完全幸福薬ほどは強力ではない薬を使って、どん底に落ちた人間の心から絶望や不幸感を取り除き、「とくに不幸でも幸福でもない状態」を作り出すことについて検討した。そのとき、これを肯定できる側面があると同時に、慎重な考察を加えなければならない側面もまたあると指摘した。それがまさに、アディクションの問題であった。すなわち、薬によってどん底からすくい上げられて「とくに不幸でも幸福でもない状態」になっている人間は、もしその薬が切れたらふたたび不幸のどん底に落ちるかもしれない。そう思うと、その人間は薬を手放すことができなくなり、その薬へのアディクションが生じることになるのである。これをどう考えればいいのだろうか。

不幸感や自己否定感に支配されている状態は、けっして尊厳ある生ではない(27)。薬によって、そのような状態から脱出することは間違ってはいない。薬によって達成された「とくに不幸でも幸福でもない状態」が、もしその薬なしには維持できないとするならば、その人間は薬へのアディクションに陥っていると言わざるを得ない。しかしながら、この場合は、そのようなアディクションの状態がもたらす精神の一応の安定を基盤として、その人間は全人生を悔いなく生き切る営みへと進む可能性が与えられているのであるから、このアディクションは「人間の尊厳」を奪うものとはならない。この場合、アディクションではあるけれども「人間の尊厳」は守られるというのが、私の結論である(28)。

では、この薬を完全幸福薬に置き換えて、幸福感を上昇させ、その人間を幸福感の支配のもとに置いたとしよう。これはやはり尊厳ある生とは言えないのだろうか。私は、言えないと考える。この場合、その人間は幸福感によって支配されているから、現状がそのまま肯定されてしまい、山も谷もある人生を悔いなく切り開いて進んでいこうとする動機が失われるからである。それは尊厳ある生とは言えないと私は考える。尊厳ある生とは、幸福も不幸もある人生を、誰の欲望によっても踏みつけにされず、自分の欲望によっても振り回されずに、他人とのかかわりのなかで、自分の人生を自分で悔いなく切り開いていくことである。これはカントを吟味したうえで、私なりに見出した「人間の尊厳」の考え方である(29)。

本論文で私はカントの「人間の尊厳」の考え方にひとまず依拠して考察をスタートさせた。そして、幸福薬と幸福器械の検討を通して、いま述べたような「人間の尊厳」の考え方を持つようになった。これによって、カントに学びながらもカントとはまた別様に「人間の尊厳」を考えていく足場が築かれたと私は考えている(30)。

5 結語

以上、様々なことを議論してきたが、当面の結論として、次の二つを記しておきたい。まず、「人間の尊厳」は、幸福感による支配からも、不幸感による支配からもまぬがれていることとして規定できるということである。そして、薬や器械によって幸福感を引き起こすことについては、(1)それが不幸感のどん底から人間を引き上げ、悔いのない人生を生き切ることをサポートするための基盤を作り出すのであれば、それらを否定する必要はないこと、(2)引き起こされた幸福感によって人間の心が支配されるような状態に陥るのであれば、それらは否定されなければならないということである。人間の心が幸福感によって充ち満ちることは、一見最高の幸せのように思えるが、幸福感をもたらすスイッチをオフにできないくらい幸福感に満たされることは人間からその尊厳を奪い去ってしまうことに他ならない。幸福薬の開発に対して我々が漠然とした不安を抱いてしまう理由のひとつは、その先にこのような尊厳の喪失が待ち構えているということを、我々が直観的に感じ取るからであると私は考える。

*本論文は、2011 Carnegie-Uehiro-Oxford Conference on “Shaping Moral Psychology,” New York, November 8-9, 2011にて筆者が行なった口頭発表を加筆修正したものである。発表に際しては財団法人上廣倫理財団からの助成を受けた。

 

文献一覧

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(1) 現時点においても、脳機能の可視化技術によって、脳内に投与された薬のふるまいと、内的な精神状態のあいだの相関関係が明らかになっている。薬によって得られた多幸感の研究については、Fowler et al. (2007)参照。

(2) Mill (1972), p.7.

(3) アリストテレス(1971) 1097b:20、(上)38頁。

(4) アリストテレス(1971) 1101a:15、(上)57頁。ここで言う「究極の生涯」とは、人の全生涯のことを指している。

(5)アリストテレス(1971) 1099a:10-20、(上)46-47頁。

(6) 本論文を読み終えれば、私の立場はむしろアリストテレスの言うような幸福観に近いことが分かるであろう。

(7) President’s Council on Bioethics (2003), p.250.

(8) Ibid., p.255.

(9) Ibid., p.259.

(10) Ibid., p.260.

(11) Ibid., p.265.

(12) Don. C. Des Jarlais (2000), p.336.

(13) Wood (2001), p.267.カントは幸福を「自分の状態に満足することに、その存続を確信するかぎりであこがれ、そして求めるということ」として定義している(カント(1969)、283頁)。カントは、自分自身のためになされた幸福追求は単なる自然的傾向性にすぎないとみなす。これに対して、他人の自律を侵害しないかぎりにおける他人の幸福の追求こそが我々の目的であり義務であるとする。

(14) カント(1969)、289頁。これは重要な点である。古来より多くの哲学者たちは、真の幸福はなにかの道徳性を含むはずであると考えてきたからである。ウッドは、「古典的な学説においては、幸福それ自体あるいは幸福の主要な部分は、徳の所有あるいはその行使と同一視されてきた」と述べている。(Wood (2001), p.262).

(15) なぜそれが「「人間の尊厳」としか言いようのないもの」であるかについては、さらなる考察が必要である。私は本論文の最後で、私なりの「人間の尊厳」の考え方を提示したが、それでもなおこの問題は残存する。将来への課題としたい。

(16) Kass (2006), Kass (2008).

(17) アダム・シュルマンによれば、人間の尊厳の概念は少なくとも4つの歴史的源流がある。すなわち、ギリシア古典、聖書、カント道徳哲学、20世紀の憲法と国際条約である。Schulman (2008), pp.6-15.

(18) カント(1972)、348頁。

(19) カント(1972)、325頁。

(20) 不幸感と自己否定感の関係については、今後さらに考察しなければならない。幸福感と自己肯定感の関係についても同じく考察しなくてはならない。

(21) 森岡(2003)。

(22) ここで述べた欲望は、エンハンスメントへの欲望も含むものである。したがって、エンハンスメントの時代における究極の自由は、エンハンスメントへの強い欲望から解放されている自由であるということになるだろう。

(23) これについて、拙著『無痛文明論』において異なった角度から議論した。森岡(2003)。

(24) ここで注意しておきたいのは、いま述べたような「幸福感によって支配された生を選ぶ自由」というのは、以前に議論したような「不幸になる自由」とは異なるということである。というのも、前者は尊厳ある生から逃れるために行使される自由であるのに対し、後者は幸福感による支配に逆らって尊厳ある生を獲得するために行使される自由であるからだ。

(25) Mill (1972), p.10.

(26) ミルは『自由論』第4章で、愚行権に関する多少入り組んだ議論を行なっているので参照すること。Mill (1972).

(27) しかしながら、尊厳のない生も、尊厳のある生と同等に価値のある生であるということに注意しなければならない。これについては稿を改めて論じることにしたい。

(28) もちろん現実の精神作用薬は、副作用も大きく、必ずしも人間の回復を助けるのに役立たないことも多いし、かえって悪化させてしまうこともある。本論文で行なっているのは思考実験であるから、これらの側面は考慮されていない。実際の現場での精神作用薬の使用については、かなり慎重な検討と手順が必要であることは言うまでもない。

(29) もちろんこの定式も、「人間の尊厳」を説明するひとつの糸にすぎない。他の側面については、森岡(2007)で論じたことがあるが、いずれこれらを統合して論を展開してみたいと思う。

(30)たとえば、カントの「人間の尊厳」の考え方の基礎には、みずから自己立法していくオートノミーの人間観がある。私の「人間の尊厳」の考え方は、そのようなカント的な人間観を取らなくても成立するように思われる。この点については今後の議論にゆだねたい。