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リバーフロント整備センター編『多自然研究』第55号 2000年 3−4頁
市民意識と河川事業
森岡正博


 吉野川の可動堰をどうするかをめぐって、住民投票が行なわれた。その結果は、すでにご承知のように、反対意見が多数を占めた。それを受けて、徳島市長は反対の立場に鞍替えした。しかし、知事や建設大臣は、住民投票によって方針を変更するつもりはないとの発言を繰り返した(2月現在)。
 今回の住民投票は、河川事業にとっての、一大転機になると思われる。なぜかといえば、日本の市民意識が新たな段階へと成熟をはじめているからであり、今後の河川事業はこれらの市民意識を無視してはうまく進まないことが明瞭になったからだ。もちろん、この住民投票になんの拘束力もないとして、既定の路線をひた走ることもできる。しかし、今回の出来事が、これからの行政のあり方に背後からじわじわと影響を及ぼしていくことはまちがいない。
 それにしても、いちばん理解できなかったのは、建設大臣の発言である。住民の生命に関わることは住民投票になじまないとか、こういうことは専門家に任せていればよいとか、住民投票の結果がどうであろうと既定の路線を進むのみというような発言は、聞いていて唖然とした。彼には、現在進行形で進んでいる、市民社会の成熟についての認識がほとんどないのではなかろうか。だから、ここまでズレたことを発言できるのだろう。
 市民社会の成熟とは、地位が高い者や専門家たちが世の中のことをすべてやりくりするというやり方が、しだいに通用しなくなるということを意味する。つまり、政治家や行政官僚や専門家が社会の運営をまかされているのは、彼らが市民の代理人であるからであり、社会の運営の最終決定権はつねに市民の側にあるはずだ、というのが成熟した市民意識である。ようするに、「世の中をどうすればいいのかは、おれたち政治家や官僚や専門家がいちばんよく知っているから、おれたちにぜんぶまかせておけばいい。大衆はぐちゃぐちゃ口出しをするな」という考え方が、通用しなくなる時代が近づいてきているのだ。
 今回の住民投票の結果は、そういう文脈で理解しなければならない。建設大臣の発言というのは、まさに、「おれたちにまかせておけばよい。大衆はぐちゃぐちゃ言うな」という精神そのままである。このような政治家は、いまはいいかもしれないが、次の時代には集票が難しくなることだろう。市民意識の成熟という流れを敏感に感じ取っているのは、むしろ徳島市長のほうである。彼は、最初は賛成派であったが、住民投票の結果が出ると、その結果を尊重して意見を変えた。そして、どういう結論になるにせよ、もう一度最初から議論をやり直してほしいと述べた。この態度こそが、新しい市民意識にいちばんフィットするものである。
 この点は、とても大事なところだから、河川行政にかかわる方々はぜひ注意して聞いてほしい。あの住民投票の反対票というのは、「お前ら、ぐちゃぐちゃ言わんと、既定路線に従わんかい!」という一種の恫喝に対する「ノー」の声である。この点だけは間違わないでほしい。あの反対票は、専門的な知識の啓蒙が不充分だったために市民が誤った事実認識をした、ということでは断じてない。あれは、上からの恫喝という旧来の政治手法に対するノーの声なのだ。何度でも繰り返すが、これこそが、ことの真相である。それを理解しない一部の官僚たちは、すぐに「啓蒙の努力が足りなかった」と口にする。そして「ご説明にあがりたい」と言いにくる。そうではないのだ。自分たちの考えたことがいちばん正しいに決まっているから、みんなはそのように従うのがいちばんいいことなのだ、専門家もそれを支持しているではないか、という態度にノーが突きつけられているのである。
 市民からの要求の真意は、「恫喝によるごりおし」でもなく「答えがあらかじめ決まっている会議の開催」でもないやり方、すなわち、「結論は真にオープンにしたままで、双方が徹底的に議論して解決策を模索する」やり方で前に進みたいということなのである。もし、そのようなやり方で前に進むことができるならば、たとえ、その結果として「可動堰建設」という決定が導かれたとしても、市民たちはそれに従うはずだ。だから、いま必要なことは、徳島市長が示唆するように、もう一度最初から、「結論を真にオープンにした議論」を再開することである。
 政治家や官僚から見れば、そんなことを言っても、反対派は何があろうと反対し続けるだろうし、議論の場への出席を拒むことすらあるではないかと反論したくなるだろう。だが、ほんとうに、「結論を真にオープンにした議論」を継続していれば、「何でも反対派」や「出席拒否派」は、逆に成熟した市民意識を敵に回すようになっていくはずである。時代は大きく転回しているのだ。「体制・対・市民」という図式はすでに崩壊している。市民意識というのは、反対派意識のことではない。「何でも反対派」は、成熟した市民意識にとっては、敵なのである。
 もう一度言おう。今回の住民投票の反対票というのは、建設大臣の発言に見られるような「恫喝型政治」に対するノーの声である。あるいは、「建設賛成の人間は投票に行くな」と呼びかけた人々が象徴しているものに対する、ノーの声である。この点を直視することをせず、いつまでも「啓蒙不足」や「過去のいきさつ」にこだわる人々は、たとえそこに一片の真実があったとしても、やはり時代から大きく取り残されていくことになるだろう。
 建設賛成派の人々は言うかもしれない。もし、議論の結果、可動堰の建設が中止になったりすれば、洪水が起きたときにいったいどうするのだと。私は、そこまで心配する必要はないと思う。なぜなら、そこに住む人々が、徹底して議論してなされた決定が、建設中止であり、その結果として洪水による被害が出たとしたら、その被害は彼らがみずから引き受けるべきだからである。市民たちが話し合って方針決定をする。そして、そこから生じた結果もまた、市民たちがすべて引き受ける。これこそが、市民社会の原理である。逆に言えば、自分たちが出した結論には徹底して責任を負うという覚悟をもって、住民の生命の関わる議論を行ない、方針決定をすることこそが、成熟した市民社会の運営の仕方でなければならない。成熟した市民たちは、「お上」が決めてくれるのを好まない。そのかわりに、失敗したときに、「お上」が救ってくれるのもまた好まない。私は、市民意識がここまで進んでいくことを期待している。今回の文章は、かなり感情的になって書いてしまったが、なぜ私がここまで感情的になって読者をいらださせるのかについて、やはり、考えてほしいのである。

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