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作成:森岡正博 
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エッセイ

 

*日記に書いた文章2篇だが、反響があったので、ここに保存する。

 


2003年4月14日

英語の発表をまたしないといけないので、ネタ探しのために自分の本をパラパラと見てた(笑)。『生命学に何ができるか』をネタに、ちょいと発表をするかと思って、あれこれ考えていたのだが、ふと思い出してしまったのは、出版時に出た加藤秀一の批評だった。加藤は、ふたつのことを言っている。ひとつは、私の本がフェミニズムからの簒奪なのではないかということだ。加藤のこの批判は、たぶん的がはずれているように思う。普通にそういうふうに言われるべき次元は、この本は脱しているはずだからだ。加藤自身と同じく、私もまた、フェミニズムに「やられて」その上で、ぎりぎり対峙していることに間違いはないからだ(くわしくはいまは述べないけれど)。もし加藤が本気でこれを言うのなら、加藤自身もまたその批判の俎上に載るであろうということは自覚しなければならない。そしてそれは結構メタ次元の話をしていることになるという注釈が必要だと思われる。ふたつめは、加藤の言葉を引用すれば、「誰からも大切にされない人のかけがえのなさをいかに守るのかという問いこそが、倫理学に課せられた真の責務ではないだろうか」というもので、実は、これは図星のように思うのだ。そして、生命学が「生命」についての問いなおしを欠いていることを加藤は鋭く指摘している。

さっき、この本をパラパラとめくっていて、思ったのは、この2番目の批判である。そして、これは正面から受け止めないといけないなとふたたび思ったのであった。それで、またパラパラとめくって、ミルクティーを飲んで、うとうとして、そして、私はこの本を全部書き直さないといけないと思った。それは時間のかかることになるのだろうけど、仕方ない、やってみるしかない。いつできるか分からないけど、書き直そう。すべてのテーマを書き直そう。

昨日、図書館で本を探していた。そしたら、出口のところで小さな子どもが母親の姿を求めて全力で泣いていた。顔を真っ赤にして、顔をしわくちゃにして、突っ立ったまま、叫んでいた。図書館員たちが困った様子で、彼をなだめていた。全力で泣き叫ぶその子の顔が、いま世界のあちこちで全力で泣き叫んでいるであろう子どもたちへとかぶさっていく。心細いことだろう。取り囲む世界が、まるで冷ややかな、針のむしろのような感触で迫ってくることだろう。そのひりひりするような絶望感を、私もありありと思い出すことができる。すべての大人たちは、それを思い出すことができる。「全世界の子どもたちに幸あれ」。


2003年5月2日

風薫る5月の到来。待ちに待った季節であります。あー、すがすがしい。最高。

大学では、授業のない時間は大学統合のための会議ばっかり。学生との面談などもこの時期は目白押しだし、大学にいるときは自分の研究室と会議室と教室を往復するだけの生活だ。

ところが、先日、午後の最初の会議が早めに終わってしまって、夕方からの会議までのあいだに1時間半の空き時間ができてしまった。いちおう研究室に戻ったのだが、大学の用事はすべて終わっていて、とくに何もすることがない。自分のための仕事、つまり「無痛文明論」の推敲は、原稿を自宅に置いてきたので不可能だ。学生が来る予定もない。というわけで、突然、何もすることのない1時間半という、近年まれに見る時間が与えられてしまったのだった。さて、どうしたものかと思い、ひとつだけあった仕事であるところの、荷物を一個宅急便で自宅まで送るという作業をするために、段ボール箱をかかえて大学前のローソンまで行ったのであった。外に出ると、一面の青空に、すがすがしい空気。そのあまりの青空に、思わずローソンでジュースとお菓子を買って、研究室には戻らずに、そのまま大学の奥の方にある芝生のところまでいって、そこのベンチに腰掛けた。ジュースを飲んで、まわりを見回す。芝生の遠くのほうに、学生たちが座っていて、なにやらしゃべっている。反対側では学生が一人携帯メールをしている。空は完璧な青空。部室のほうから、トランペットを練習する音が届いてくる。私はジュースを木のテーブルの上に置いて、木のベンチに寝ころんだ。芝生の真ん中に生えている大きな樹木の枝が、青空をバックにして広がっている。日の光が、生い茂る緑の葉を、表側と裏側から同時に照らしていて、その薄緑と濃緑のモザイク模様が風に揺られ、この世のものとも思えない光景を作り上げている。そのまま、そうやって木々と空を眺めていた。蜂が耳元までやってきて、どこかへ去っていく。遠くのほうで、野鳥がしきりに鳴いている。そうやって寝ころんでいて、ふと思った。いま私は充足している、と。そして思った。この充足を可能にしているものは、いったい何なのだろうか、と。こうやっていまここで寝ころんでいても、私の生活は破綻しないだろうという安心感。いま自分がここにいるということを納得できている肯定感。いろいろの不安や気苦労の種や他人の苦しみなどを、とりあえずいまは意識の周縁部に追いやっていられるという事実。それらのことが、この充足を支えているのだろうか。と同時に、この充足は、けっしてお金では買えない。地位によっても、名声によっても、手に入れられない。そしてこの充足は、世界の隅々の至るところにある。充足は、偶然の到来であり、特権であり、平凡な出来事である。目の前に木々があり、昆虫がおり、鳥がおり、さわやかな風が吹いているというのもまた、条件の一部をなすのであろうか。芝生の空間が、殺虫剤をまかれた一種の無痛空間であるというのもまた事実なのだ。それにもかかわらず、その日の午後、私はたしかに充足した。イラクでまだ殺戮が続けられ、トルコで地震の死傷者があり、遠いところで子どもが溺れ死に、それにもかかわらず私は充足した。世界の悲惨が私の充足を支えている以上、私はそれらの想像を絶する悲惨をいまここで生きていると言える、ということなのか。「それにもかかわらず充足した私」とは何なのか、という問いがこのようにして浮かび上がる。

などと考え、ふとテーブルのジュースに手を伸ばそうとすると、テーブルの上をアリが走っているのを見つけた。アリが触角を機敏に動かしながら、弧を描いて駆け抜けていくのを、私はじっと目で追跡した。アリの背中に西日が強く当たっていた。芝生にはもう学生の姿はなく、向かいの道路では、二匹のハトが、道に落ちたゴミをついばんでいた。