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Norio Fujiki & Darryl R.J. Macer(eds.)
Intractable Neurological Disorders, Human Genome Research and Society (February 1994)
Eubios Ethics Institute, pp.293-295.(原文は英語)

国際的かつ比較文化的な生命倫理学にむかって       森岡正博

1 第二段階の生命倫理学

 数年前、私は欧州評議会の国際生命倫理会議に出席し、参加者たちと意見交換する機会にめぐまれた。私はそこで生命倫理の雑誌や書物でたびたび名前を見かけるアメリカの生命倫理学者と出会った。私は彼に、私が包括的で統合的な生命研究の可能性を構想していると述べ、生命倫理学はそのひとつの主要なパートとして含まれるだろうと述べた。
 私が話し終わるのを待って、彼は即座に、このフィールドでは包括的なアプローチは不可能であると答え、私に、医療倫理のひとつのテーマに絞って研究することを勧めた。私は彼のこの答えを聞いて、おおきなショックを受けた。というのも、私はそれまで、生命倫理学というのは、生命と環境に関わる現代的な諸問題を解決するためにあらゆる専門領域を統合させようとする知的な試みであると考えていたからである。
 「生命倫理=バイオエシックス」ということばは、V・R・ポッターによって1970年に作られた(Potter,V.R.1970,1971)。彼はこのことばによって、自然科学と人文科学とを横断するような「学際的倫理学」を意味していた。ポッターのバイオエシックスは、医療倫理学よりもむしろ、今日の環境倫理学に近い。
 しかしながら、1970年代、80年代を通して、「バイオエシックス」ということばは、人工妊娠中絶や安楽死や医師患者関係などの、医療における現代的な倫理問題を扱う専門領域を指すことばとして用いられるようになってきた。バイオエシックス百科事典が1978年に刊行され、多くのテキストが1980年代に登場した。医療の領域における応用倫理学としてのバイオエシックスは、1980年代初期のアメリカで、専門disciplineとして成立したと言えるかもしれない。多くの大学院生が専門家(バイオエシシスト)としての訓練を受けはじめた。そして、バイオエシシストは、病院のなかの実際のケースに「生命倫理の原則」を適用することで、生命倫理的な諸問題を解決することが期待された。
 有名な生命倫理学者であるペレグリーノ教授は、最近の論文で次のように述べている(Pellegrino,E.M.1993)。 1960年代半ばまでは、医療倫理はヒポクラテスの伝統のなかで議論されていた。1960年代半ばに伝統的な医療倫理のパラダイムが崩壊し、新しいタイプの医療倫理、すなわち今日の生命倫理が現れた。そしてこの生命倫理は、1970年代から80年初頭にかけて原則重視の生命倫理学へと変貌していった。その良い見本は、ビーチャムとチルドレスの『生命医療倫理学の諸原則』(Beauchamp,T.L.and Childress,J.F.1979) である。彼らは、無害悪、善行、自律、正義の4つの原則を立て、それらの原則を具体的なケースにシステマティックに適用することで生命倫理の具体的な問題を解決しようと試みた。
 その後、反原理主義の季節がおとずれた。原則重視の生命倫理学は、「哲学分野の外部から」(Pellegrino,p.1160) 批判されはじめた。それらの批判としては、たとえば、原則が抽象的すぎる、こころの要因を軽視している、人間の性格や人生や文化的背景やジェンダーを軽視している、などがある。そして、徳倫理学やケア理論などをも含めたいくつかのあらたな理論が登場しはじめている。ペレグリーノ自身は、原則重視の生命倫理学のかわりに「臨床生命倫理学clinical bioethics」を提唱している。しかし同時に彼は、将来のバイオエシックスが、普遍主義にもとづいた支配的生命倫理理論の不在によって、不毛な相対主義とニヒリズムへと導かれてゆく危険性に注意を喚起している。
 ペレグリーノの分析は非常に興味深い。もし彼が正しければ、我々はいまや第二段階の生命倫理学の入口に立っているのである。そして、この第二段階の生命倫理学は、国際的かつ比較文化的視野に立つべきなのである。

2 適切な公共政策のための生命倫理学

 ここで私は最初の問い、すなわち「生命倫理学とは何か?」という問いに戻って、さらに「21世紀の生命倫理学はどのようなものになるべきか?」と問うてみたい。私は、将来の生命倫理学は今日の原則重視、男性中心、医療偏向のアメリカの生命倫理を脱して、国際的で、比較文化的で、もっと女性の視点を取り入れた、もっと環境問題重視の「生命−科学−社会研究」になるべきだと信じている(Morioka,M.1988,1991)。 今日我々が直面している第一の問いは、科学技術の時代において生命をどのように見ればよいのか、そして現代の医療問題・テクノロジー問題・環境問題によって混乱させられてきた社会をどのようにして正しく運営していけばよいか、という問いである。従って、我々のゴールは、原則重視の応用倫理学としての生命倫理学に固執するのではなく、我々の視野をさらに大きく開いて、医療問題、テクノロジー問題、こころの問題、地球環境問題などをも研究対象として考慮できるようにし、我々の時代のこれら相互関連している問題の本質に到達しようと試みることである。もちろん、「医療のバイオエシックス」(Potter,V.R.1988) は、この試みの重要なパートとして残されるであろう。
 第二段階の国際的生命倫理は二つの柱からなっている。ひとつは適切な公共政策を作り上げるための生命倫理学。もうひとつは、生命−科学−社会についての統合的研究としての生命倫理学である。
 まず最初に適切な公共政策を作り上げるための生命倫理学について見てみたい。これは、たとえば、エイズや移植や老人福祉などの国内的・世界的な健康問題に関する健康政策作成のプロセスを含んでいる。それはさらに、病院のなかでの日常的な臨床上の倫理や、弱者や障害者に対する支援ネットワークを構築してゆく活動などをも含んでいる(Morioka,M.et al.1993)。
 4つの重要な点を指摘しておきたい。
 第一に、このプロセスは比較文化的かつ国際的でなければならない。我々は、ある民族の社会に根本的に影響を与えるような健康政策を決定するさいには、彼らの持っている価値システムや世界観を尊重しなければならない。しかしながら、一連の難問がただちに生じてくる。たとえば、「インフォームド・コンセント」の導入が、その地域の伝統的な価値システムと慣習を破壊するような場合、我々はどうすればよいのであろうか、生命倫理的な概念のうち何を普遍的なものとみなし、伝統的な価値と慣習のうちのどの部分を手つかずで残しておくべきかを決定しなければならないという難問に、我々は直面するであろう(Akabayashi,A.and Morioka,M.1991)。
 第二に、我々は、異なった階級、ジェンダー、人種、宗教の間に見られる価値の多様性に対して、特に注意を払わなければならない。この意味で、最近のフェミニズムからの生命倫理へのアプローチは特筆に値する(Holmes,H.B. and Purdy,L.M.1992)。
 第三に、臨床の場面において医学的な決定を行なうときには、患者と医師双方のこころの要因を無視することはできない。第一段階の生命倫理学は、道徳規則の論理的分析に集中するあまり、人間の本性の心理的な側面を軽視してしまった。これは間違っている。人々の行為は、道徳規則や説教によってではなく、個人的な心理的関係性によってしばしば深く影響されるのである。
 第四に、我々は、我々の生命と健康に影響を与えるような科学技術を効果的にガイドする国際的なネットワークを作り上げる必要がある。たとえば、人間の初期胚を用いた研究はドイツでは禁止されているが、他の多くの国々では可能である。代理母はアメリカでは可能だが、日本では不可能である。これは問題かもしれない。我々はここで再び、普遍性と地域的多様性の問題に直面するのである。

3 統合的研究としての生命倫理学

 それではここで、生命−科学−社会に関する統合的研究としての生命倫理学について考えてみよう。1988年に『生命学への招待』を出版して以来、私が主張してきたことは、現在の生命倫理学は非常に視野の狭いパラダイムであるので、それに替えて、我々の生命をあらゆる視点から捉えて、生命−科学−社会の根本的な関係性を把握することのできる、真に統合的な生命学を創造することが必要だ、ということであった。 
 この目標を達成するためには、まず生命倫理、文化人類学、宗教学、社会学、エコロジー、フェミニズムなどの多様な専門領域の研究者から成る研究ネットワークを作り上げなければならない。そして、生命に関わる今日的な諸問題を可能な限り多面的に捉えなければならない。たとえば、体外受精に関する今日の諸問題は、倫理的側面からだけではなく、宗教的、社会学的、人類学的、女性学的、さらにはエコロジカルな視点からさえも吟味されなければならない。生命に関わる今日の複雑な諸問題の本質は、あるひとつの専門、たとえば医療倫理学によっては、とうてい接近不可能である。
 第二に、根本的な概念や考え方についての再検討が必要となる。たとえば、生命倫理の議論では、「生命」や「死」の概念はほとんど検討されない。たとえその議論が人間の死に関わっているときでさえ、そうである。「生命とは何か?」「人生の意味とは何か?」「私が死んだあとで何が起きるのか?」といった問いは、生命倫理学の中ではある種のタブーであったように私は感じる。しかし、これらの問いを欠いた生命研究は無意味である。従って、人間の生と死に関する今日の医療倫理学の議論のほとんどは、基本的には無意味であると私は言わざるをえない。1989年以来、私は現代日本人の「いのち観」の調査を行なってきた(Morioka,M.1991)。このセミナーでは、いのちのイメージと概念にかんする豊かなデータが、世界中から持ち寄られている。生命に関する将来の研究は、この種の研究を基盤として構築されなければならない。
 第三に、我々はこれらの生命倫理的な問題を、他の関連する社会問題と一緒に、たとえば末期患者や高齢者のケアの問題と一緒に研究しなければならない。理由は分からないけれども、バイオエシックスの論文集やテキストにはこれらの話題が載っていない。これはミステリーである。我々はまた、医療の問題と環境問題とを同時に同じ土俵の上で研究しなければならない。というのも、これら二つの問題は、現代科学技術が人間の身体の内部と外部にある生命世界へと侵入したことによって引き起こされた問題だからである。ポッター教授は、真のバイオエシックスは「医療のバイオエシックス」と「エコロジーのバイオエシックス」の双方を含まなければならないと言ったが、それは正しいと思う(Potter,V.R.1988)。 我々は、医療倫理学と同時に、エコロジー研究や環境倫理学にもまた注意を払ってゆく必要がある。
 たくさんのことを語ってきたような気がするが、ここでもうひとつだけコメントしておきたい。
 私は生命に関する統合的研究の重要性を強調してきた。しかしながら、関連する専門領域を集めてきて、得られた情報を単純に結合させるだけでは、完全な混沌を生み出すだけである。これを避けるためには、多様な考え方や情報や思考方法を統合するための「方法」が必要となる。そのような方法を我々はまだ所有していないと、私は考えている。したがって、異なった専門をもった世界中の研究者と手をたずさえながら、第二段階の生命倫理学を作り上げてゆくそのプロセスの中から、統合のための手法そのものをも創造してゆかねばならないのである。それができたあかつきには、生命倫理学という専門分野は、統合的な「生命学」へと再編成されてゆき、21世紀の国際的な視野に立った適切な公共政策の立案をサポートすることができるようになるだろう。

References

1. Potter,V.R.,(1970) Bioethics: The Science of Survival. Persp. Biol. Med. 14(1): 127-153.
2. Potter,V.R.,Bioethics, Bridge to the Future (Englewood Cliffs:Prentice-Hall, 1971).
3. Pellegrino,E.D., (1993) The Metamorphosis of Medical Ethics: A 30-Year Retrospective. JAMA 259:1158-1163.
4. Beauchamp,T.L. & Childress, J.F., Principles of Biomedical Ethics. (New York: Oxford
Press, 1979).
5. Morioka,M., Seimei Gaku eno Shotai (Invitation to the Study of Life) (Tokyo: Keiso Shobo,
1988).
6. Morioka, M., (1991) The Concept of Inochi: A Philosophical Perspective on the Study of
Life. Japan Review 2: 83-115. Also reprinted in Global Bioethics (in Press).
7. Potter, V.R.,Global Bioethics: Building on the Leopold Legacy (East Lansing:Michigan State
University Press, 1988).
8. Morioka, M. (ed.), Akabayashi, A., Saito, Y., Sato M., & Tsuchiya,T., Sasaeai no
Ningengaku (Philosophy of Interdependence). (Tokyo: Hozokan, 1993).
9. Akabayashi, A. & Morioka, M., (1991) Ethical Issues raised by Medical Use of Brain-Dead
Bodies in the 1990s," Bio Law vol.II-48: S531-538.
10. Holmes, H.B. & Purdy, L.M., Feminist Perspectives in Medical Ethics (Bloomington and
Indianapolis:Indiana University Press, 1992).

英語版http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~macer/IND/INDMM.htm

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