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作成:森岡正博 
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エッセイ

『朝日新聞』大阪版・2005年9月1日夕刊
性的少数者に救い―性科学と性道徳考える資料 : 映画「愛についてのキンゼイレポート」
森岡正博

 この映画は、実証的な性科学の創始者であるアルフレッド・キンゼイの生涯を描いたものだ。キンゼイと言っても、もういまの若い人たちは名前すら知らないかもしれないが、この人は偉大な研究者である。まだ「性」についておおっぴらに語ることが許されていなかった二〇世紀半ばの米国で、一万人を超える一般市民に「性」についての面接調査を行ない、当時知られていなかった様々な事実を明るみに出した。
  キンゼイの調査が成功したのは、彼が最後まで「科学的」な態度を捨てなかったからだ。キンゼイはそもそもは昆虫学者だった。ちょうど昆虫の交尾を冷静に観察するようなまなざしで、人間の性行動の真実を徹底的に調査したのである。
  その結果、一九四八年の男性版レポートでは、予想以上の男性が同性愛であることを発見し、一九五三年の女性版レポートでは、女性の性感帯が実はクリトリスであることを明らかにした。
  キンゼイ・レポートによって米国社会はパニックに陥った。しかしながら、キンゼイの研究は、当時の性的マイノリティの人々にとって、まさに天上からの救いの手のように見えたのである。映画では、自分の同性愛に悩む女性がキンゼイを訪れるシーンがある。彼女は、キンゼイのレポートによって、自分と同じような悩みを抱えている人が他にもたくさんいるのだということを知り、それによって救われたと語る。
  事実は事実として淡々と報告するという、彼の「科学的態度」が、結果的にマイノリティを勇気づけることになった。
  ところが、キンゼイと若い研究者たちは、不思議な逸脱の道に入っていく。彼らの調査によって、婚前性交や婚外性交が多数行なわれていることが判明した。動物においても、人間においても、不倫や乱交は決して異常ではないのである。ということは、われわれも不倫や乱交をして何が悪いのだろうか、と彼らは考えた。そしてそれを仲間内で実践しはじめるのだ。
  キンゼイは自分の妻が若い研究者たちとセックスするのを許す。研究者たちもお互いの妻を交換するようになる。キンゼイも研究者たちと同性愛を行なう。キンゼイがこのような方向に走った原因のひとつは、異様に道徳的だった彼の父親への反発心がある。
  しかし当然のことながら、このような行為は、仲間内での感情的軋轢を生んでしまい、うまくはいかなかった。その頃キンゼイは、九千人の男女とセックスしたという男性にインタビューする。その男は成人だけではなく、少年や少女とのセックスもたくさんしたと言う。それを聞いた瞬間、キンゼイは科学者であることを打ち捨てて、誰であれ同意なきセックスはしてはいけないと説教する。
  このシーンがこの映画の山場である。科学者であり続けようとしたキンゼイが、道徳を叫ぶ瞬間。それは、彼の内部に、彼が忌み嫌っていた父親が立ち現われた瞬間でもある。また、キンゼイの目の前に現われた絶倫男性は、キンゼイの心の奥底に潜む、乱交とフリーセックスへの欲望が、悪夢のように具現化した姿であろう。
  キンゼイは、突きつけられた難問を解決することなく、志半ばにして死んだ。米国サイトには、この映画がいかに破廉恥で害悪に満ちたものであるかを告発する保守派女性団体によるページがある。性解放が終わったいま、季節はふたたび性道徳なのか。それを考えるための基礎資料となる映画だ。