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作成:森岡正博 
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エッセイ

映画『ヒノキオ』パンフレット 2005年7月
映画「ヒノキオ」の解説文
森岡正博

 この映画にはいろんな要素が詰まっている。その中でも、この映画の新ネタは、当然、「ヒノキオ」という遠隔操作ロボットだろう。ちょうどアシモのような形のロボットに、自分が乗り移れるとしたら、どんなふうになるのだろうと想像できるだけでも楽しい。
  ところで、こういう遠隔操作ロボットは、かつては「遠隔出現・テレプレゼンス」と呼ばれていたのをみなさんは、ご存じだろうか。一九八〇年代のアメリカのマサチューセツ工科大学のメディアラボという研究所で、いわゆるバーチャル・リアリティの研究がはじまったのだが、そのときの目玉のひとつが、この「遠隔出現」だったのだ。
  これは、たんに私がロボットを遠くから操作するというだけのことを意味していたのではなく、まさに「ヒノキオ」のように、ロボットが私の目となり手となることで、私があたかも「そこに行っている」かのような体験を味わうことができる装置のことを、意味していたのである。
  そういうことを考えていたのは工学者たちであるから、彼らがそれを応用しようとしていたのは、まずは宇宙探査のような場面だった。つまり、火星や木星などに人間を直接送り込むのではなくて、なにかのロボットを送り込んでおいて、それを地球から人が操って、まるでその人が「そこに行っている」かのような臨場感で調査をしたり、故障を直したりするというようなことが考えられていたのだ。あるいは、医療の分野の応用も想定されていた。米国にいる外科手術の名医が、地球の裏側の病院にいる難病患者の手術をする、というようなことである。
  その時期に工学者たちが夢見ていたことが、その後、いろいろな方面に影響を及ぼしていくことになる。医療分野では、実際に、遠隔手術というのはすでに臨床実験の段階に入っている。実際には「ヒノキオ」のような人型ロボットがベッドサイドで手術をするわけではなく、もっとメカニックで機能的な「手先」が遠隔操作で使われるわけで、現実とはやはり味気ないものだ。
  バーチャル・リアリティをもっとも効果的に映像化したのは、なんと言っても「マトリックス」だろう。
  今回、「ヒノキオ」を見て、考えさせられたのは、バーチャル・リアリティものが日本映画で翻案されると、「学校もの」プラス「親子もの」映画になってしまうという現実についてである。ハリウッドならかならず「世界の滅亡」が目の前に迫っており、それを救う「勇者」とかが、この世界やあの世界を行ったり来たりして戦うことになるわけなのだが、それに比べて日本で作られたこの映画はなんと「身の丈に合った」ストーリーになっていることだろう。
  しかし、そうであるがゆえに、「ヒノキオ」は日本でしか作れなかった映画であると言える。この「ヒノキオ」に「乗る」主人公は、ひたすら繊細な男の子だ。となると、これは「ガンダム」「エヴァ」系の男の子の血筋を引いているということになるのだろう。そういえば、ガンダムもエヴァも、男の子(や女の子)がロボットに「乗って」それを内側から操る話だった。エヴァの場合は、それに親子の葛藤、母親の死、父親との戦いと和解というサブテーマが組み込まれていて、単なる戦闘ものとは一線を画していた。となると、この「ヒノキオ」も、これら日本アニメの嫡子であるとも考えられるのである。
  ヒノキオに乗り移る主人公のサトルをめぐって、二人の女の子が現われる。ひとりは、男勝りの少女のジュンだ。彼女は、超肉体派の少女だが、外見は男の子でしかない。彼女は自分の体を自己肯定できていない。中身は女の子だが外見は男の子というわけで、ちょうどヒノキオを使うサトルと同じような心身二重構造をしていると言える。もうひとりの女の子は、隣のクラスの美少女(名前?)である。サトルはヒノキオのズームレンズを使って彼女を盗撮するように見る。彼女はサトルにその内面や肉体性を見せることがない。その意味で、ゲームの中に登場するバーチャルな美少女のイメージと、ほとんど区別のつかない存在者である。
  この三人が、夜のキャンプ場で、一面の星空を川の字になって眺めるシーンがあるが、このシーンはこの映画の白眉であると思う。サトルの右側には、肉体派のジュンが寝ていて、左側にはバーチャルな(名前?)が寝ている。サトルはヒノキオに内在しながらも、まるでそこにいるかのように「遠隔出現」し、手足を動かしてうれしそうに煩悶するのである。その三人は、みな、同じ方向、遠くきらめく夜空のほうを眺めている。それぞれの傷をこころに負いながらも、その次元を抜け出すようにはるか遠くに広がる無限の星空を、並んで見上げるとき、彼らの気持ちはその夜空の果てでつながるのである。このシーンを見ることができただけで、私はこの映画を観てよかったと思った。
  この映画のもうひとつの面白い点は、ゲームやバーチャル・リアリティの技術世界が、人間の「生と死」というものに密接に関わっているらしいという直観を示していることである。少年たちは「煉獄」というゲームにはまってしまうのだが、この映画は、魂が画面を伝って、あっちの世界に吸い込まれていくという、あの感じをうまく捉えている。実際、体がこっちにいるのに、ゲームをしている私はあっちのほうに吸い込まれているというゲーム体感は、いわゆる「臨死体験」にどこか似ているところがある。
  現代においては、「こっちの世界」と「あっちの世界」の境目は、墓場のような古典的・伝統的な場所に存在するのではなく、ネットやバーチャル・リアリティのようなテクノロジーの最先端に出現するという真理を、この映画は正しく捉えていると言えるのである。