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『月刊 フォーラム』 1997年6月号 19−29頁
暴力としての中絶                   
森岡正博

*大幅に修正して、『生命学に何ができるか』に採録しました(2001年11月)。最新版はこちらをお読みください。

 

 一九九六年九月に優生保護法が改正され、「母体保護法」として再出発することになった。この改正は、優生保護法から、いわゆる「優生部分」を削除するというもので、国会での討議もないまま、きわめて短期間で成立した。新しい母体保護法は、不妊手術と人工妊娠中絶を規定する法律として機能することになる。しかしながら、今回の法改正では不充分だとして、各方面から再改正の要望があがっており、今後も活発な議論や政治運動が繰り広げられると予想される。(今回の改正と、それに関連する倫理問題については、拙論「優生保護法改正をめぐる生命倫理」『日本研究』16号(印刷中)/拙論「生命と優生思想」宝積宗教文化研究所編『生命論への視座』大明堂(印刷中)参照)。
  ところで、優生保護法改正が試みられたのは、今回で三度目である。第一回目は一九七二年から七四年にかけて。第二回目は一九八二年。ともに改正は不成功に終わった。しかしこの二回の改正劇のなかで、女性の中絶可能範囲をせばめようとする保守派と、中絶を女性の自己決定権として確立させようとする女性運動と、胎児条項に見られるような優生思想を糾弾する障害者運動のあいだで、いわば血みどろの議論が積み重ねられていった。それらの議論は、現実の政治運動とリンクする形で進められたため、利害関係が錯綜して、分かりづらいものになっている感は否めないが、しかしながら、一九七〇年代初頭から今日まで二五年間の議論の蓄積は、八〇年代のいわゆる脳死臓器移植論議に匹敵する日本の生命倫理の財産となっているのである。この議論のなかで発見された知見は、世界にほこれるものだと私は思っている(これらに関しては拙論「ウーマン・リブと生命倫理」山下悦子編『女と男の時空・現代篇』藤原書店 一九九六年参照)。
 そのうえで言うのだが、この議論の蓄積を検討してみるとき、私はそこにいくつかの疑問を感じることがある。そのひとつは、中絶を女性の自己決定権として確立しようとしている女性たちが、「人工妊娠中絶」とはいったいどのような種類の行為なのかという点について、あまり積極的に発言しない点である。もしそのまま育てていけば、新生児として誕生して成長していけるであろう胎児を、人工的に吸引して、あるいは掻爬して、あるいは切断して身体死に至らしめるという行為を、どういうふうに評価し、考えるのかということを、女性たちはさほど積極的には語ってこなかった。(もちろん、日本家族計画連盟編『悲しみを裁けますか』人間の科学社、のような貴重な例外はある)。そこをいわば避けたままで、「中絶は女性の自己決定権に属する」という主張を繰り返してきたように見えるのである。
 これに対して、保守派は、むしろこの点を執拗に問題にし、中絶のときに胎児は痛みを感じているとか、残酷だとか、生命の尊重に反するなどの主張を行なってきた。保守派に言わせれば、中絶という行為は、生命ある胎児への許しがたい冒涜なのであり、殺人に当たるのである。
 だから、保守派と女性運動の主張は、この点をめぐっては、基本的には平行線を保ったままであると言ってよい。
 話はさらにややしこしくなるが、英米の議論などでは、いわゆるパーソン論というものがあって、ある時期までの胎児は、そもそも道徳的配慮をするべき<人格>になっていないのだから、それを中絶してもなんら道徳的負い目を感じる必要はないという主張を行なっている。つまり、中絶が殺人なのかどうかという問いは、そもそも殺人という概念が成立するような<人格>存在にまで胎児が成長してからはじめて成立するのである。だから、そこに至るまでの期間は、そもそも中絶が殺人かどうかという問いそのものが無効なのだと考える。ちょうど、ガラスコップを壊したとしても、それを殺人に問えないのと同じことである。
 あるいはまた、胎児にも生存権というものがあって、女性の中絶の権利と胎児の生存権が衝突するという枠組みで考えようとする道筋がある。この考え方では、胎児がまだ初期のあいだは女性の権利のほうが優越するのだが、胎児が成長してくるどこかの時点で、胎児の生存権のほうが女性の権利を上回るときがくることになる。胎児の身体の基本が形成される妊娠一二週前後、あるいは胎児に母体外生育可能性の生じる妊娠二二週前後に、その線が設定されることが多い。

 私は、「権利」「人格」「生命尊重」などとは異なった切り口から、この中絶の倫理性の問題を考えてみたい。それは、中絶というものを、「暴力」という視点からとらえるとどうなるか、ということである。
 中絶を暴力としてとらえるならば、もしそれが女性の自己決定権に属することであるとしても、それは女性が胎児に対してふるう「暴力」にかんする自己決定権だということになる。もし、胎児がまだ「人格」にまで成長していないとしても、中絶は胎児という生命体に対する「暴力」であることは間違いがなく、そういう暴力に対して人は道徳的負い目を感じる必要がないのかどうかについては議論の余地が残ることになる。生命尊重論に立つとしても、人が、かけがえのない生命に対して「暴力」をふるわざるを得ないということの意味について、もう一度考えなければならないであろう。
 暴力という視点から、中絶について考えてみる。こういう試みは、いままであまりなされてこなかったように思われる。そのささやかな試みを、以下に行なってみたい。
 その前に、ひとつだけ確認しておきたい。中絶を暴力としてとらえるという視点は、一見すると、中絶に反対する生命尊重派の立場のように見えるかもしれない。しかしながら、私は、中絶の倫理性について議論するときには、中絶賛成か反対かという二分法の考え方は採用しない。そのような二分法こそが、問題の本質を見逃させ、人を楽なほうへ楽なほうへと流させる罠だからである。だから、本質探究の議論においては、私は賛成の立場も反対の立場もとらない。しかし同時に、現在進行形で進んでいる政治的文脈に私がコミットする場合においては、私は中絶を女性の権利として考える立場をサポートしたいと考えている。結論から言えば、私は、中絶が胎児への一方的な暴力であるということを、骨の髄まで噛みしめたうえで、それを女性の権利として考えていくというスタンスをとるのである。
 さて、中絶の倫理性について考えるときに、フェミニズムの視点を抜きにするわけにはいかない。ごく最近、すなわち一九八〇年代後半までの生命倫理学は、ジェンダーの視点をないがしろにしていた。それへの反省が生命倫理学の先進地アメリカで自覚されてくるのは、一九九〇年代に入ってからである(Holmes & Purdy (eds.) Feminst Perspectives in Medial Ethics 1992 など参照)。そのもっとも大きな理由は、アメリカの生命倫理学が、白人男性エリートによって制度化されたからである。日本の「学界」においては、このような視点すらまだ存在していない。この話は、また別の機会に書くことにしたい。ともあれ、リプロダクションの生命倫理について考えるときに、もはや、フェミニズムの視点、ジェンダーの視点を抜きにすることはできないと私は考えている。
 そこで、まず、中絶の倫理性を考えるときにも、ジェンダーの視点抜きで議論してもかまわないものと、ジェンダーの視点込みで議論しなければならないものの二種類を分けておくことが必要となる。
 それに加えて、現実社会の行動を懲罰によって規制する「法」の次元での問題と、「法」の背後にあって我々の行動や思考パターンを決めている「倫理・価値観・慣習」の次元で詰めなければならない問題とを、とりあえず分けておくのが都合がよい。なぜかと言えば、中絶は、初期の人間生命体に対する「傷害」あるいは「殺害」に多かれ少なかれ連関する事象なのであり、それをどのように社会的に<統御>するかについては、政治的熟慮と妥協にもとづいた「法」による一元的管理がどうしても必要になる。その次元では、制裁や基準の多元性は許さない。ところが、中絶を倫理として、あるいは生命観としてどのように考え、自分たちの行動を決めていけばいいのかという次元においては、基本的な多元性というものが前提となる。そのような多元性を保持したままで、様々な人々が、お互いの考え方や感じ方をぶつけあい、そこから学びあっていくことが大事だからである。そのような意味で、中絶を考えるときには、「法」の次元と、「倫理・価値観・慣習」の次元に分けておいたほうがよいと私は思う。
 だとすると、図に示すような2×2=4の、四通りのマトリックスができることになる(フォーラム90sでの発表のときの図とは番号が異なるので注意)。



              ジェンダー抜き      ジェンダー込み

法の次元             1            2
 
 

倫理・価値観の次元        3            4


 それぞれの事象で考えるべき代表的な問題点をあげてみよう。
 まず、法の次元でジェンダー抜きに考えてもよいこと(領域1)としては、いわゆる胎児の期間適応の問題がある。すなわち、妊娠何週までは中絶は許されるが、何週を越えると許されなくなるという線引きの問題である。日本では、今のところ、母体外で胎児が生存できない(生育限界)とされる妊娠二二週以前においては、中絶は母体保護法によって違法性が阻却されるが、それ以降は、母体の生命に危険が生じた場合以外の中絶は刑法堕胎罪に問われる。
 このときに、どうして生育限界を中絶の期間の設定に使うのかという疑問が出されることがある。胎児の身体の大枠が形成され、脳神経系のはたらきも見られるようになる妊娠一二週前後までに限るべきではないかという考え方もある。
 これらは、ジェンダーやセックスに関係なく、そもそも生命を奪ってはならない人間存在とは何なのか、という問題系である。そして、これは、熟慮と妥協によって法の次元で一元的に確定すべき問題である。
 次に、法の次元でジェンダー込みで考えなければならないこと(領域2)としては、いわゆる中絶を「女性の自己決定権」として法の文言で決めるのがよいのかどうかという問題がある。胎児を子宮のなかで生育させていくのはほかならぬ女性なのであって、男性ではない。女性の胎児に対する関係性と、男性の胎児に対する関係性は、根本的に異なる。中絶という行為もまた女性の身体のなかでなされる。だから、中絶というジェンダー非対称的な行為を規制する法もまた、ジェンダーへの配慮を当然しなければならなくなるはずだ。その一例として、中絶にかんする「女性の自己決定権」を、男性の決定権よりも上位に置くという法的措置は充分考慮に値する。
 この二点については、それだけで議論すべき点が充分すぎるほどあるのだが、それについては別の機会に論じることにしたい。

  さて、倫理・価値観・慣習の次元で、ジェンダー抜きに考えてもよいこと(領域3)としては、胎児とはそもそもどのような存在者なのかという論点がある。これは生命倫理学では「胎児の道徳的地位」と言われる問題群で、いままで山のように議論が積み重ねられてきた。胎児はいつから人格になるのか、胎児がもっている権利とはどのような権利か、ある存在者が権利を持つためにはどのような条件をみたさなければならないか、胎児を自己防衛の論理で殺害するのは正当かどうか、痛みを感じない時期の胎児に対しては道徳的配慮をしなくてもいいのか、胎児には利害関心があると言えるのか、あるのなら誰がそれを代弁すべきなのか、胎児には魂が吹き込まれているのか、あるいはコップと同じ存在なのか、等々。これらの議論に興味のある方は、英語で出版されているAbortion関連の代表的な論文集をご覧になるとよい(Beauchamp & Walters Contemporary Issues in Bioethics4th ed. 1994あたりから辿っていくのが簡便)。そのスコラ的緻密さに圧倒されるであろう。そんなに厳密に議論をして、いったいどうなるのだという感じである。
 しかし、それらのなかにも、やはりきちんと考えておくべきことはある。私がもっとも気になっているのは、胎児が成人になる「可能性」の問題である。つまり、胎児は、そのまま子宮のなかで生育させて、出産し、子育てをすれば、我々と同じ成人になる「可能性」をもった存在者である。だとすれば、中絶というのは、成人になる「可能性」を消去すること、すなわち「可能性の殺人」だということになる。この点をどう考えればいいのかというのが、私はもっとも気にかかる。
 これを、ふたつの観点から検討してみよう。
 まず第一に、胎児は、ガラスのコップと同じような存在者ではない。たしかにパーソン論が主張するように、胎児は、自分があれをしたいとか、これをしたくないという利害関心を持たないかもしれないし、自己意識や理性をもたないかもしれない。その意味では、ガラスのコップと同じなのかもしれない。しかしながら、胎児は、そのまま成長していけば、我々と同じ成人になる可能性をもった存在者である。ガラスのコップはいくら大事に育てても、成人にはならない。この点が決定的に違う。同じように、胎児は、母親の内臓とも異なる。たしかに胎児も、母親の内臓も、母親の身体に付属して生き続けている生命体ではある。しかしながら、いく内臓を育てても、それが成人になることはない。内臓はいつまでたっても内臓のままである。胎児はそうではない。
 胎児は、成人になる可能性をもった存在者であるのだが、しかしながら、当然、成人とは同じではない。母体外生存の可能性が生じるまでの胎児は、母親の身体に依存してはじめて生き続けることができる。そのような、生身の人間の肉体への直接的な寄生生活を、成人はしていない。母体外生存が可能な時期に入ったとしても、胎児はまだ自分ひとりの力では食べ物をとることすらできない。
 だから、胎児というのは、「人間の成人になる可能性をもった存在者」である。
 ということは、胎児を破壊する人工妊娠中絶というのは、将来、人間の成人になるかもしれなかった、その可能性を破壊することである。それは、我々と同じような成人という存在になる可能性を抹消することである。人工妊娠中絶というのは、まず、この意味での<存在>の可能性の抹消である。
 第二に、母親は、つわりや、胎動や、内部感覚によって、胎児のことを感じることができる。子宮にいる段階から、母親と胎児とのコミュニケーションははじまっているのである。しかし、妊娠初期では、母親以外の人間と胎児のコミュニケーションは、まだ本格的には始まっていない。もちろん、たとえば妊娠を知った父親が母親のお腹に耳を当てて、胎児の音を聞こうとするときには、父親と胎児とのコミュニケーションがはじまっていると言ってよいかもしれないが、一般的には、まだ胎児と母親以外の人間とのコミュニケーションは開始されていない。(母親の妊娠を家族や知り合いが認知したときに、それらの人々と胎児との関係が、間接的にはじまったと言うことはできそうである。)
 しかし、それらを認めたうえで言えば、胎児が様々な他者とゆたかなコミュニケーションをできるようになるのは、生まれてきて、幼児になり、小学生になり、社会生活を営むようになってからであろう。そしてその人間は、他の人間と遊び、恋をし、傷つけあい、そうやって成長してゆく。
 つまり、胎児というのは、私とそのような生身のコミュニケーションを営むことのできる他者へと育つ可能性をもった存在者なのだ。私と、様々な関係性をもつようになる可能性をもった存在者なのだ。別のことばで言えば、私と深くかかわり合って、お互いの内面性を変容させあうようなエロス的関係をもつ、そのような可能性をもった存在者である。
 だから、人工妊娠中絶というのは、そのような関係性の可能性を抹消することである。私と、ゆたかな関係性を営むことができるかもしれない、その可能性を抹消することである。人工妊娠中絶というのは、この意味での<関係性>の可能性の抹消である。
  このような、<存在>の可能性の抹消と、<関係性>の可能性の抹消というものを、どういうふうに考えればいいのかという問題が出てくるのだ。
 私は、この二種類の可能性の抹消という点は重く受け止めたい。生命倫理学の議論のなかには、「可能性の抹消」というのは、「現実の抹消」とは違うのだから、倫理的に問題はないとする意見があるが、私はそれをとらない。将来開けるかもしれなかった、目の前にありありと浮かぶ可能性を抹消するという行為は、その行為をした人々にある重荷を背負わせるであろうが、それは、その人々が、他者からのサポートを受けながら、担い、苦しみ、錯乱し、融和し、受容し、決着を付けていくべきものだと思うからである。そして、この世で生きることは、様々な可能性の抹消から成り立っているという事実を、どう受け止めればいいのかという方向に考えを進めていくべきなのではないだろうか。

 では、倫理・価値観・慣習の次元で、かつジェンダー込みで考えなければならないこと(領域4)としては、なにがあるのか。
 そのひとつが、私の言うところの、中絶の暴力性である。
 まず、人工妊娠中絶は、胎児に対する暴力である。胎児に致死的な障害があったりして、ほおっておけば死産になる場合を除いては、胎児は自分の力で成長し出産に向かって生き続けようとしている。そのような、自分の力で生き続けようとしている胎児を、その生の勢いに逆らって、一方的に破壊してしまう行為こそが、中絶なのである。そのまま育てていけば、赤ちゃんとなって生まれでてくるであろう存在者を、強制的に破壊してこなごなにしてしまうこと。それが中絶である。人工妊娠中絶とは、「存在し続けよう」「成長しよう」としている生命体である胎児の生存を、一方的かつ強制的に破壊し抹消するという暴力である。
 この点は、繰り返し確認しておきたい。
 中絶が女性の権利であるとしても、それは、「存在し続けよう」「成長しよう」としている生命体である胎児の生存を、一方的かつ強制的に破壊し抹消するという暴力を行使する「権利」なのである。
 中絶の権利とは、暴力行使権なのである。
 中絶は殺人であるという非難に対して、中絶擁護派の一部は、胎児はまだ<人格>になっていないのだから、胎児の<殺人>ということは理論上あり得ないと反論してきた。しかしながら、胎児の<殺人>ということは理論上あり得ないとしても、胎児への一方的かつ強制的な<暴力>がそこで行使されていること自体は、彼らも認めざるを得ないであろう。
 中絶は殺人ではないから、ガラスのコップを壊すのと同じことだ、という論理に対して、中絶暴力論は反論する。ガラスのコップは、「存在し続けよう」「成長しよう」としている生命体ではない。だから、その比喩は誤っている。中絶とは、ガラスのコップを壊すこととは、まったく違った意味での、暴力行使なのである。
 ここで、細かい注釈をしておく。
 まず、中絶が暴力行使であるとして、その主体は誰なのかという点である。中絶という具体的な行為を行なうのは、実は、産科医である。女性(あるいはカップル)が自分で流産させる場合を除いては、産科医が暴力行使主体である。しかし、産科医は、自分の決断でそれをするのではない。産科医は、依頼者からの依頼を受けて、中絶という行為をいわば代理執行するのである。では、その依頼は誰がするのか。それはケースによって異なるだろうが、妊娠している母親、あるいはそのカップル、あるいは親族など第三者をふくめたグループなどであろう。そのなかに、中絶を決断した決定者がひとり、あるいは複数いるはずである。それは母親かもしれないし、いやがる母親を無理に説得した父親かもしれない。
 いずれにせよ、中絶の決断主体が存在して、その決断主体からの依頼を受けて産科医がその暴力行使を代理執行するという一連のプロセス全体が、中絶という暴力行使の実像なのである。
 もうひとつ、中絶は胎児に対する暴力であるが、そもそも「妊娠」という事態が、胎児による母親への暴力であるという見方ができる(これについてはフォーラム90の討論で教えられるところがあった)。胎児は、肉体的にも母親の健康を痛めつける側面があるし、独身で生をエンジョイしようと思っていた女性にとっては、その夢をつぶす暴力であるとも言えるだろう。このように、たしかに、胎児から母親に一方的に行使される暴力というものは存在する。
 それはそのとおりなのだが、しかし、中絶という場面に絞ってみれば、中絶という行為が「母親から胎児への一方的暴力」であって、「胎児から母親への一方的暴力」ではないということは明白である。
 さて、中絶の暴力性ということを考えるときには、そこにジェンダーの側面を含めて考えなければならない。なぜなら、中絶の暴力性があらわになる場面とその様相が、女性の場合と男性の場合とでまったく異なってくるからである。
 では、中絶を受ける当の女性にとって、それはどのような暴力なのだろうか。
 まずそれは、胎児の生存よりも「自分自身の都合」というものを優先させる暴力である。そして、すき好んでするのではない暴力である。中絶を好きでする女性がいるだろうか。「悲しいけれど必要なこと」という言い回しは、そのあたりの機微を見事にとらえている。そして、自分自身の肉体と精神に長期的な傷を残すような暴力である。一般に、暴力というのは、ふるった当人にとっても重いものを残すのが普通であるが、中絶という暴力はとくにその側面が強く出る。たたとえば、中絶のあとに、死んだ胎児に対して「私を許して」という思いがつのったり、殺人者としての負い目をかかえたり、あるいは子どもを産める身体をしている自分自身を自己否定したという苦しみに襲われたりする。肉体的にも、子宮などを傷つけると言われている。この意味では、女性が、女性自身にふるう暴力という面を強くもっている。
 ただし、中絶というものを、女性自身にふるう暴力として第一に考えるのは、問題点をずらすことになると思う。中絶はなによりもまず、「胎児に対する暴力」なのであり、それと同時に、女性自身に対する暴力でもあるのである。
 では次に、中絶する女性の性的パートナーであった男性にとって、それはどのような暴力なのだろうか。男性が中絶に賛成したのなら、それはまず、男性による胎児に対する暴力である。中絶という手術を受ける当事者は女性であり、男性は自分の肉体をいじられるわけではない。だから、男性にとっては、中絶手術を受ける女性との関係、そして中絶される胎児との関係において、暴力性があらわれてくる。
 妊娠が分かったときに、女性が男性に告げたのだが、男性は女性に中絶を強要したというケースはたくさんある。その結果、女性がひとりで産むことを決意する場合もあるだろうが、男性に反対されてまで産みたくないということで中絶をしぶしぶ選択することのほうが多いのではないか。そんな場合、男性は、手術を受けるわけでもない自分の都合を最優先して、女性に中絶を強要したという暴力行使をしているのである。この場合、その暴力は、女性と胎児の両方に向かっている。
 その逆のケースもある。妊娠が分かって男性は女性に産んでほしかったのだが、女性のほうがそれをいやがって中絶してしまった、ということが実際にある。女性の都合と言い分に、男性が引きずられた結果である。そんなときに、男性は、やはりトラウマをかかえてしまう。中絶という暴力行使を、自分の力によって食い止めることができなかったという悔やみを抱えてしまったり、自分もその暴力の共犯者になってしまったという負い目を抱えたりすることがある。中絶をさせてしまった、という男性の心的外傷については、いままでほとんど語られてこなかった。フェミニズムの目配りがここまで届かないのはしかたない。これは今後の男性学のテーマである。
 さらに言えば、カップルの経済的事情や、親類縁者からの圧力(「そんな女に子どもを産ませるわけにはいかん」)などによって、中絶が選択されていくこともある。中国のように、国の一人っ子政策によって中絶が導かれていくこともある。このような場合では、暴力の出所は、社会構造や経済構造であったりする。たとえば、国の経済状態や生活福祉状態がよくなれば、中絶が減るということは充分考えられる。
 こうやって考えてみると、中絶という暴力は、ジェンダー間の非対称で錯綜した権力関係の合間を縫って、様々な通路を通って行使されることが分かる。そして、いろんな権力関係のなかでの利害の押しつけあいを経て、結局のところいちばん力を持っていない胎児が暴力の最終的な餌食になる。そして、そういう暴力行使によって、それにかかわった女性も男性も、みずからをそれぞれの程度において傷つけることになる。そういう構図が見えてくる。中絶という行為は、胎児、女性、男性、社会を網の目のようにむすんだ「暴力行使のネットワーク」であるということが、中絶暴力論によって見えてくるのである。

  ひるがえって考えてみれば、一九七〇年代以降のウーマン・リブもまた、出産にかんする「暴力行使」と戦ってきたことに気付く。それは、「産め!」という暴力である。女性は子どもを持って一人前、若いうちにたくさん子どもを産んで、しっかりと育てなさい、それが女性の生きる道です、という国家・社会・男からの圧力=暴力に対抗して、<産む産まないは女が決める!>と言い放ったのがウーマン・リブであった。女性を子産み機械として考え、中絶をしにくくすることで出生率を上げて経済を活性化しようとした体制側に対して、ノーを突きつけ、「性と生殖の権利」をもとめて闘ったのが、七〇年代初頭からの優生保護法改悪反対運動であった。
 その運動を通して、女性たちは社会のなかで発言力を増してゆき、女から女たちへのエンパワメントの輪を広げ、男性優位社会の変革を押し進めていった。
 そのことは、ウーマン・リブ、フェミニズム運動のかけがえのない成果であったと私は思う。
 しかしながら、彼女たちは生殖における「産め!」という暴力の解決に集中するがあまり、中絶という名のもとに自分たち(女性も男性も)が胎児に対してふるっている暴力というものをどう考えればいいのかについての検討を、いまのいままで後回しにしてきたのではないだろうか。
 私はリブ、フェミニズムを批判しているのではない。そうではなくて、男性たちがことの重要さに気付きはじめたいま、女性たちが後回しにしてきた問題群を、女性と男性双方からの貢献によって、ともに考えてゆくことはできないだろうかと思っているのだ。みずからの権力性を自覚し、それを問いなおすなかから男性学の必然性を認識した男性たちと、先行する女性たちが、お互いの込み入った権力性を、衝突を経てときほぐしながら、異なった視点から共同作業する道を探したいのだ。
 さて、まとめてみると、私が中絶の倫理性についてこだわりたいのは、(1)存在と関係性の<可能性>の抹消であり、(2)胎児に対する一方的かつ強制的暴力である中絶という行為を、もし我々が捨て去ることができないのであれば、それをみんなが引き受けたままでどうやって生きてゆけばいいのか、という点である。胎児抹殺をすき好んでやるひとは、女性であれ、男性であれ、そんなにいるはずがない。なぜすき好んでやれないのか、そこにはそれなりの理由があるはずなのだ。その理由というものを直視せずに、屁理屈を構築して中絶は倫理的に間違っていないという結論を導いたり、あるいは女性の権利というところだけに過度に集中して中絶という行為の本質に目をふさいだりするのはおかしいと私は思う。しかしながら、同時に、生命尊重論を振り回して、男尊女卑社会の延命だけを単にめざしている底の浅い運動体もあさはかだ。
 最初にも述べたように、私は、政治的文脈では、中絶を女性の権利として認めていく動きをサポートする。ある時期までの中絶にかんする最終的な決定権は、女性が握るべきであると思う。そのうえで、女性の決定権が、どの時期の胎児まで及ぶべきなのかについて、慎重に議論するべきである。
 本質追求の面においては、私は、また別の方角を向いている。私は、「権利」概念、とくに「自己決定権」概念がオールマイティだとは考えていない。人は、胎児を中絶する「権利」というものを、ほんとうにもっているのだろうか。私は、胎児の中絶にかんする<決定や選択>をする「権利」というものはあると思うのだが、それは胎児を中絶する「権利」とは別物だと思っている。これについては、また別の機会に論じたい。
 そして、私が解明したいのは、中絶という暴力行使を社会のなかに組み込んでこざるを得なかった、我々人類の文明とはいったい何なのかということである。それは、動物を殺戮し、戦争を繰り返してきた我々の文明と本性を問いなおすことにつながるはずである。中絶の問題というのは、一方においては、ここまで拡大して捉えないかぎり、解けない問題系であると私は考えている。この問題系においては、ジェンダー論はあまり役に立たない。もし仮に女性が主導権を持つ文明があったとしても、彼らは中絶をするであろうし、動物の殺戮を続けるであろうし、戦争を繰り返すことだろう。
 しかし同時に、いまここで生きている私の生というものを考えるときには、ジェンダーの観点を抜きにすることはもはやできない。ジェンダーの視点から生と死をとらえ直すことから、生命論ははじまるべきだ。そのためには、中絶というものを、暴力という観点からとらえ直してみる必要性があったのだ。
(もりおか まさひろ・大阪府立大学総合科学部教員・生命学)

*本文でも触れましたが、「女性に中絶させてしまった男性の心的外傷」について語りあう場ができないかと考えています。匿名でも結構ですので、編集部までご連絡ください(森岡記)。

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